小学館イマージュ
日本の巨匠たち
■上村 松園 (1875―1949)日本画家
 明治8年4月23日京都に生まれる。本名、津禰(つね)。上村松園は、明治・大正・昭和の時代を美人画一筋に描き続けた女流画家で、優れた色彩感覚と格調高い様式を追求して〈美人画〉という日本画特有のジャンルで他の追随を許さない実績を残している。
 明治20年に京都府画学校に入学。日本画家・鈴木松年に師事。さらに幸野楳嶺、竹内栖鳳に学び、後に「松園美人画」という形容を冠せられたように、若い頃から豊かな才能を花開かせた。明治23年に弱冠15歳で内国勧業博覧会に「四季美人画」を出品、褒賞となり、その後日本美術協会、日本青年絵画共進会などに出品を続けて美人画に独自の境地を拓いてゆく。明治40年の第1回文展で「長夜」が、翌年の第2回文展で「月かげ」が三等賞を受賞してその名が広まると、大正4年の第9回文展で「花がたみ」が二等賞、翌年には永久無鑑査に推された。さらに帝展委員、帝展参与、帝国芸術院会員を歴任し日本の近代画壇に多大な功績を残した。昭和23年、女性として初の文化勲章を受章。翌昭和24年8月27日、奈良・平城村の山荘で永眠。

■横山 大観 (1868―1958)日本画家
 水戸藩士・酒井捨彦の長男として明治元年、水戸に生まれる。明治22年、東京美術学校(現・東京芸術大学)に第一期生として入学、早くから将来を嘱望された。明治31年には師・岡倉天心らと新たな日本画の創造をめざし、菱田春草、下村観山らとともに日本美術院を設立、新しい技法を取りこみ、当時の画壇に革新的なエネルギーをもたらした。大正から昭和にかけて、琳派の伝統技法を受け継いだ装飾性を帯びた華やかな世界を展開する一方、澄んだ墨調の近代の水墨画を試みたり、さまざまな洋画の手法を取り入れるなど、旺盛な画技の広がりをみせた。そして昭和12年には栄誉ある第1回文化勲章を受章する。
 自然・風景・人物と多岐にわたる画題に取り組んだ大観は、その色彩感覚や大胆な構図に日本画の伝統を受け継ぎながらも常に新たな視点を失わず、こまやかな筆致で独自の世界を築き、明治の画壇に新風をもたらした。70年に及ぶその画業を通して、大観は日本画や洋画の範疇にとらわれることなく、常に時代に先駆けて自ら信じる新しい絵画を求め続け、多くの名作を残した。昭和33年2月26日、東京の自宅にて死去。その上野池之端の旧邸は、横山大観記念館として公開されている。

■棟方 志功 (1903―75)版画家
 明治36年9月5日青森市生まれ。鷹山宇一(たかやまういち)らと洋画グループを結成、大正13年、洋画家を志して上京。わずか4年の間に油絵「雑園」の帝展初入選という快挙を成し遂げ、日本創作版画協会展にも初入選を果たすなど、早くから頭角をあらわした。もともと洋画家志望だったが、崇拝するゴッホが高く評価していた版画の世界に身を転じたことで、その才能は一気に開花する。昭和13年、「善知鳥版画巻」が文展に特選。昭和15年には「釈迦十大弟子」で佐分賞を受賞。戦後、スイスの「ルガノ国際版画展」、イタリヤの「ビェンナーレ国際美術展」等権威ある美術展で矢継ばやに受賞し、国際的な評価をうけて世界各国で展覧会が開催されるようになった。
 棟方が版画の制作と並行して情熱を注いだのが倭絵(やまとえ)と自らが名づけた肉筆画である。画域は、花木鳥魚、山水、人物画から美人画、仏画など多岐にわたり、旺盛な創作欲のもとに「りんご花風図」「円窓薔薇妃図」などの作品が生みだされた。
 昭和40年、朝日文化賞を受賞。昭和44年、大阪万国博覧会に「大世界の柵・乾」を展示。昭和45年には毎日芸術大賞、文化勲章などの栄誉に輝いている。昭和50年9月13日、東京都杉並区の自宅で死去。同年11月、郷里の青森市に棟方志功記念館が開設された。

■白隠 (1685―1768)江戸時代中期の禅僧
 白隠慧鶴(はくいんえかく)は駿河(静岡県)に生まれ、わが国臨済宗の中興の祖であり、近世を代表する禅の大成者と称されている。
 白隠は「公案」を中心とした禅の修行に新風を吹きこみ、多くの修行僧を育成して臨済宗復興を成し遂げた。現在の臨済宗の禅風は白隠に始まったとされている。中国の影響の強かった臨済宗を日本独特の姿に変革し、体感的に理解しやすい教えを唱えた白隠は、また「碧巌録(へきがんろく)」などを提唱講義し、その博学は尽きることがなかったと伝えられている。
 白隠は、若い頃から書画や詩文にも優れた才能を発揮し、宗教画や動物や人物の戯画なども数多く残していて、それらは庶民を意識したユーモアをとりまぜ、独特の作風を見せている。また、禅の精神を平易に書いた著作のほか、呼吸法などの実践的治療を説いた医学随筆「夜船閑話(やせんかんな)」などもあり、その教えは今もなお多くの人々に親しまれている。明和5年、長年住んだ駿河の松蔭寺で84歳の生涯を終えた。

■小杉 放庵 (1881-1964)日本画家
 洋画家から日本画家へと異色の画歴をもつ放庵は、明治14年、栃木県日光市に生まれた。明治31年に上京して洋画家・五百城文哉の弟子となり「未醒」と号した。明治44年、「水郷」を文展に出品し最高賞を受賞。大正2年、ヨーロッパを遊学し、翌年には日本美術院の再興に参加し洋画部をリードしたが、大正9年、洋画部解消とともに院展を去る。昭和2年、松尾芭蕉の『奥の細道』の足跡をたどって東北、北陸をまわり、以後、次第に水墨画に親しむ。昭和4年の中国旅行を契機に雅号を「放庵」と改め、春陽会展にも「漁樵閑話」を出品するなど水墨画に新たな画境を求めていった。昭和10年、帝展芸術院会員となる。昭和20年代には「良寛」「芭蕉」など歴史上の人物の説話に題材をとった作品を描き始めた。その卓越した詩文の才と心安らぐ東洋的な作風は「近代の文人画」と称賛された。晩年は新潟県妙高高原にひきこもり、日本画壇に独自の画境を築く珠玉の名品を生み出す。昭和39年4月16日、妙高高原町の自宅で83歳にて逝去。

■横山 操 (1920-1973)日本画家
 大正9年、新潟県西蒲原郡に生まれる。中学を出て画家を志し上京。光風会会員の洋画家・石川雅山宅に師事する。第26回光風会に油絵「銀座裏」が初入選するが、雅山の勧めで日本画に転向して川端画学校に学び、昭和15年の新興美術院展、第12回青龍展に入選、川端龍子の目にとまる。
 横山操は、黒を主体とした、激しい情熱にあふれた作品群で注目を集めていたが、第二次大戦に召集され、終戦までシベリヤに抑留される。復員後は、次々と作品を発表、伝統的なテーマを現代的な手法で描破する気鋭の日本画家の地位を確立していった。昭和33年、青龍会会人となり、第5回日本国際美術展で「峡」が優秀賞を受賞する。
 この頃より「富士山」を描き始め、昭和37年からは富士の連作を発表し「北斎、大観、横山操」と並び称される巨匠として多くの名品を世におくり出す。  昭和40年、親交のあった加山又造の誘いで多摩美術大学の教授となり、後進の指導にあたった。43年には水墨の「越路十景展」を開催するが、アメリカ旅行の際に心臓発作をおこす。同年、脳卒中で倒れ右半身不随となるも「絵を描かなければ画家ではない」との信念から、左手での制作にかかる。48年3月脳卒中で再び倒れ、4月1日死去した。

■上村 松篁 (1902 〜 )日本画家
 上村松篁画伯は、名作「序の舞」をはじめ、数多くの近代美人画を描き、女性としては初の文化勲章を受章した上村松園画伯を母として京都に生まれました。その画才は、はやくから注目され、若干十九歳にして帝展初出品、初入選を果たしました。以来、大正・明治・昭和・平成を通じて八十余年りもの長きにわたって多数の名品・優品を発表し、花と鳥を中心にした自然の美を透徹した写実の筆で描きつづけてきました。
 画伯の作品は、どっしりと安定した構図の中に、とぎすまされた日本画の技法を駆使し、しかも伝統的な花鳥画にとどまらない、知的で気品あふれる独創的な世界を描きだしているといわれています。こうした幾多の画業に対して、昭和34年には、芸術選奨、昭和42年には日本芸術院賞が送られるなど、各界からも絶賛を博してきました。そして昭和59年には、文化勲章を受章、母子二代にわたる栄誉に輝きました。
 画伯は、今もなお活動を続け、その作品は多くの美術愛好家を魅了しています。まさに、日本画界が生んだ現代最高の巨星と言えます。平成6年には、松園・松篁・淳之の作品を収めた松伯美術館が奈良市に開館しています。松篁芸術は、さらに広く親しまれています。

■上村 淳之 (1933 〜 )日本画家
 花鳥画の大家・上村淳之は、昭和8年、京都に生まれる。本名は淳。昭和31年、京都市立美術大学在学中、「葉陰」「刈田」が新制作協会春季展に初入選。卒業制作の「鴨A」「鴨B」は学校買い上げとなる。昭和34年、23歳の若さで新制作協会春季展の春季展賞を受賞し、一躍注目を浴びた。以来、上村は、新作家賞を5回、「晨」2点で昭和53年の創画会賞を受賞するなど、出品するごとに数々の賞に輝く。昭和62年には「双鶴」を首相官邸のために制作した。
 平成4年、セビリア万博に大作を出品、その評価は年を追うごとに高まっている。平成7年には日本画に新境地を拓いた長年の功績により、父・松篁も受賞した「日本芸術院賞」が贈られた。今日の花鳥画の世界で、上村淳之は、まさに第一人者と呼ぶにふさわしい確固たる地位を占めている。
 上村淳之は美人画の大家・上村松園を祖母とし、日本画壇の重鎮・上村松篁を父にもつ日本画の名門の家系で育ったが、日本画の先駆者であった両者の作風を身近に感じながら、自らの画風を確立させている。

■一休 宗純 (1394-1481)室町時代の禅僧
 一休宗純は、応永元年(1394)、後小松天皇を父として生まれたとされ、幼少から禅寺に入り、清貧のうちに厳しい修行を行なって悟りを開いた。とんち話で知られる「一休さん」は、その修業時代の逸話の一端をあらわすものである。壮年以後は、戒律を破り、形式を否定した数々の奇行が知られている。それは、堕落した当時の世相への一休なりの警鐘であり、禅本来の心を追い求めた結果なのかも知れない。
 文明6年(1474)、勅命によって京都・大徳寺四十七世になり、応仁の乱によって焼失した大徳寺の復興を果たした。一休は多くの文化人と交わったが、中でも茶道の開祖・村田珠光に教えを授け「わび茶」の精神に大きな影響を与えたことは有名である。文明13年(1481)、京都の酬恩庵で88歳で入寂。しかし、その生涯は未だ謎につつまれている部分が多い。
 一休宗純は独創的で純粋な生き方を多くの詩文や書画に託して表現したが、作品のひとつひとつが、一休の生きた時代を代表する珠玉の名品となって今に伝えられている。特に墨蹟は自在の精神を最もよく表すものとして知られ、禅の奥義が茶道に通じるということから、その書は茶席の掛軸として広く尊重されてきた。

■沢庵 宗彭 (1573-1645)江戸時代初期の禅僧
〈沢庵和尚〉として知られる沢庵宗彭は、天正元年(1573)、但馬(兵庫)に生まれた。幼くして出家し、修行を重ねた後、大阪の堺にある臨済宗南宗寺を経て大徳寺派の董甫宗仲(くんぽそうちゅう)、春屋宗園(しゅんおくそうえん)に師事、春屋の法弟・一凍紹滴(いっとうしょうてき)の印可を受け、37歳の若さで京都・大徳寺の第一五三世の住持となった。
 寛永6年(1629)の紫衣事件(朝廷が僧に授けた法衣を幕府が剥奪した事件)では幕府に反抗し、出羽(山形)に流罪となるが、権力に屈せず、一貫して正論を通す沢庵和尚の硬骨ぶりは、一層その名を高めることになったと言われる。正保2年(1645)、権力、名誉、地位にとらわれず、無私無欲の境地を求め続けた沢庵は、品川の東海寺で73歳の孤高の生涯を終えた。
 沢庵禅師は早くから詩文・書画にも才を発揮し、千宗旦、小堀遠州らの茶人をはじめとして、柳生新陰流の柳生宗矩や三代将軍・徳川家光にも大きな影響を与えた。著書には、剣禅一如(けんぜんいちにょ)の思想を示した「不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)」がある。また和漢の教養にあふれ、深い精神性をたたえた沢庵の墨蹟は、多くの茶人に尊重され続けている。

■良寛 (1758-1831)江戸時代後期の禅僧、歌人
 宝暦8年、越後出雲崎の名主の長男に生まれながら18歳で仏門に入り、22歳の時に名を『良寛』と改める。その生涯は、世の流れに惑うことなく、ただ一心に自らの心を見つめ続けたものであった。
 備中国(岡山県)玉島、曹洞宗円通寺で漢籍作詩を学びながら国仙和尚に師事し20年間厳しい修行をおくる。修行後の全国行脚を終えて、40歳を目前に帰郷。国上山寺境内の五合庵に住まいし、その後、国上山ふもとの乙子神社境内の草庵に移り住む。
 良寛は、質素な暮らしのなかで和歌や漢詩つくり、書を愉しむという自由で無欲な生き方を通したといわれている。また俗に「手まり上人」と愛称されるほどに、手毬をしたり、おはじきをして山里の子供達と遊ぶことが多く、今に伝わる和歌や書簡にも子供達と楽しく遊ぶ情景は沢山残されており、それらには、慈悲と寛容に満ちあふれ、やさしく穏やかな心と生涯をかけて思索を重ねた志の高さが見てとれる。
 良寛は、僧ではあっても生涯寺を持たず托鉢生活を営み、人に法を説く代わりに多くの人々と親しく交流した。天保2年(1831)、庶民に「良寛さま」と慕われながら74歳の生涯を終えた。

■大燈 国師(宗峰妙超) (1282-1337)鎌倉時代後期〜南北朝の禅僧
 大燈国師は、鎌倉時代後期から南北朝時代に活躍した臨済宗の名僧として知られ、禅文化を追い求め、茶の湯の一大拠点となった大本山・大徳寺(京都)の開山としても有名な人物です。
 弘安5年(1282)播磨(兵庫県)に生まれ、11歳で仏教を学びました。その能力は他者よりずば抜けて高く、一度目を通したものはすべて記憶してしまったといわれます。その後、禅の修行僧として、京都、鎌倉と行脚し、万寿寺の高峰顕日に参禅。「宗峰」の号を授けらています。嘉元3年(1305)には、天下の高僧として名高い南浦紹明に師事し、その法を継ぎ26歳の若さにして印可の証をうけました。
 その後、花園上皇、後醍醐天皇をはじめとした多くの天皇の帰依をうけています。嘉暦元年(1326)には、京都紫野に一庵を営み、これが土台となって大徳寺が開かれることとなり、大燈国師はその創設者(開山)となりました。この時、花園上皇より「大燈」の国師号が授けられました。
 豊かな心の広さをもち、筋の通った教えを唱えた国師は、我が国の禅宗の正統を受け継ぐ、最も傑出した名僧として知られていましたが、建武4年(1337)12月、56歳で没しました。
 大燈国師は、禅僧として一流であったばかりでなく、詩文や書においても当代随一であったといわれます。特に、その書は、今に残る墨蹟中の白眉とされ、我が国第一の名筆として、傑作が今に伝えられています。

■千利休 (1522-1591)茶人
 茶道の大成者として孤高の生涯をおくった茶聖・千利休は、大永2年(1522)、大阪・堺に生まれる。姓は田中、名は与四郎。茶の湯を好み北向道陳や武野紹鴎に師事し、19歳の時、大徳寺に参禅、「宗易」と称した。永禄11年(1568)、織田信長が上洛した頃より信長の茶頭(茶事をつかさどるかしら)をつとめる。天正10年(1582)の〈本能寺の変〉の後には、豊臣秀吉に仕えるようになるが、当初から秀吉に対する言動には、茶頭の立場を越えるものがあったともいわれている。
 秀吉が関白になった記念の茶会で、初めて「利休」の名で出席し秀吉を後見、以後この号を用いるようになり、秀吉の開く茶会で中心的存在として活躍する。秀吉に強い影響を与えたとされるが、天正19年(1591)2月13日、秀吉により堺に閉門され、28日京都自邸にて切腹。享年70歳。千利休は、枯淡の境地を生涯にわたって追い求めた天下一の茶人と称され、その評価は今も変わらない。

■村田 珠光 (1423-1502)茶人
 室町時代の中期、奈良に生まれる。若くして茶の湯に熱中し、後に京都・大徳寺の一休禅師のもとで修行し、印可の証として圜悟克勤(えんごこくごん)の墨蹟を与えられたが、これを初めて茶席の掛物として用いたことから墨蹟開山と称せられる。そして、一休の教えをもとに、茶の湯の奥義も禅の精神に通じるという「茶禅一味」の独創的な境地に達した人物とされている。
 珠光は、水墨画史上に大きな足跡を残した大徳寺の禅僧の影響をうけて絵を嗜み、その深い精神性を湛えた独自の画風から、画人としても一流であったと伝えられている。
 晩年には奈良に草庵をもうけて閑寂の茶境を生涯にわたり追求し、茶聖・千利休の生誕の20年前、1502年5月15日、80歳で没した。
 内省的な心の美や「侘び」の精神に重きを置くその姿勢から、後代、珠光は「侘び茶の開祖」と称される。また、千利休も珠光を「名人」として崇拝し、珠光好みの端正な茶道具や軸をことのほか愛用したといわれている。

■小野 竹喬 (1889-1979)日本画家
 明治22年、瀬戸内の笠原(岡山)に生まれる。祖父は南画家・白神澹庵、兄は日本画家・小野竹桃という美術に秀でた家系であった。竹喬は、兄の強い薦めで14歳の時に京都画壇の名門、竹内栖鳳の門下となる。そこで上村松園、西山翠嶂や土田麦僊など才気あふれた俊英らと共に学び、明治40年の第一回文展で「山家の春」が初入選。大正5年の文展では後期印象派風のイメージをみせる「島二作」が特選を受賞する。しかし、西欧近代絵画に感化された竹喬は、翌年の文展では鑑別され、これを機に文展の審査を不満とする麦僊、村上華岳、榊原柴峰らと共に、大正7年、自由な創作活動をめざした「国画創作協会」を設立し、日本画壇に新風をまきおこした。
 竹喬は、芭蕉を崇拝し、昭和51年に「奥の細道句妙絵」を完成させ、その明快かつ鮮烈な色彩の美しさで「色彩画家(カラリスト)」と呼ばれるようになった。同年、文化勲章を受章、岡山県笠原市および京都市の名誉市民の称号を受ける。昭和54年死去。
 その画風は、ごく身近にある自然の姿をとらえ、四季折々の中で自然が示す、何気ない美しさを求めたものである。

■小泉 淳作 (1924 〜 )日本画家、書家、陶芸家
 小泉淳作は、大正13年、鎌倉に生まれる。東京美術学校日本画科(現・東京芸術大学)を卒業後、山本丘人に師事する。昭和29年、第18回の新制作協会展に「花火」「床やにて」で初入選以降、同展において十数回の入選を果たしている。昭和48年、「わかれの日」を第2回山種美術館賞展に出品。52年の同第4回展で「奥伊豆風景」が優秀賞を受賞した。また、東京セントラル美術館大賞展に出品するなど数々の展覧会に出品、入選を重ねている。昭和53年には「山を切る道」が文化庁買い上げとなり、日本を代表する作家として、広くその名が知られるようになった。また書や陶芸にも才を発揮するなど、その活動は広範囲にわたっている。
 繊細なタッチの中に独特の雰囲気が醸し出される小泉の作風は、日本画の世界に新境地を切り拓き、なかでも、昭和59年の個展で初めて発表され、大きな反響を呼んだ水墨画は、そのスケールの大きさと写実的で繊細な筆致が高い評価を得た。以来、水墨画を独創的な技法で描いた一連の作品は、現代日本画を代表する名作として人々の心を魅了し続けている。

■奥村 土牛 (1889-1990)日本画家
 明治22年東京・京橋に生まれる。本名、義三。明治38年、梶田半古に入門。塾頭だった小林古径に多くの指導を受けた。
 土牛の歩みは、どちらかといえば大器晩成型といえるが、若き日の声価は専門家の間では高く、正統な日本画家の伝統を受け継いだ画業を残している。大正12年、日本美術院研究会員となり、大正末期から速水御舟の研究会に出席し、第14回院展で初入選。以後、日本画特有の豊かな色彩表現により院展では毎回入選を果たした。現代画壇の至宝ともいうべき存在となった土牛は、明治・大正・昭和・平成の4代を通して、常に第一線で数々の名作・話題作を残してきた。その長い創作活動の中でも、特に60歳以降の華々しい活動には目をみはるものがあり、〈土牛芸術〉が一挙に花開いた観のあるエネルギッシュな時代を印象づけている。
 晩年にいたって、写生の対象に選んだのが、霊峰・富士であった。土牛は帝国芸術院会員、日本芸術院会員となり、昭和37年には文化勲章を受章、昭和53年には日本美術院理事を務めた。平成2年、101歳の生涯を終える。

■安田 靫彦 (1884-1978)日本画家
 明治17年、東京・日本橋に生まれる。本名、新三郎。13歳の頃、下山観山、菱田春草らの作品に魅了され画家を志す。
 安田靫彦の才能は、当時画壇の重鎮だった岡倉天心によって早くから認められていた。明治31年、弱冠14歳で第1回日本美術院展に出品、23歳で第1回文展で受賞という快挙を果たし、若き天才画家として画壇にその名をとどろかせた。以来、70年にわたって常に第一線で活躍し続ける。
 昭和17年、朝日文化賞を受賞。東京芸術大学教授を務め、昭和33年には、日本美術院の理事長もつとめた。戦後は、さまざまな題材の中でも、特に歴史画において他の追随をゆるさない名作・傑作を数多く残している。
 安田は、法隆寺壁画や大和絵に見られる太い線描に深い感銘を受けて、日本の古典絵画の技術をその作品に積極的に取りいれ、その画風を発展させて「新古典主義」と称される独自の技法を確立した。一方、法隆寺金堂壁画の保存、模写事業にも携わり、国宝保存委員、文化財専門審議会委員など文化財行政での尽力も大きく、23年、文化勲章を受章している。昭和53年、神奈川県の自宅で死去。

■山口 蓬春 (1893-1971)日本画家
 明治26年、北海道に生まれる。山口蓬春は、東京美術学校(現・東京芸術大学)で日本画と洋画の両方を学び、在学中に3度も二科展に連続入選し、早くからその画才を発揮した。東京美術学校を主席で卒業後、大正15年には大作「三熊野の那知の御山」が帝展の特選と帝国美術院賞という二つの栄誉に輝き、さらに宮内庁買い上げになるなど、一躍脚光をあびる。
 以後、日本画壇に新風を送り続け、常に話題の作品を発表してきた。その作風は、日本画の伝統的な題材の中に、洋画の明確な構図と明快な色彩を盛り込んだ独創的なもので、後にこの画風を発展させて「新日本画」という新しい技法を確立し、日本画壇の中で常に先駆者的な役割を果たしてきた。その業績は、後に続く若手作家の目標となり、今日の日本画壇隆盛の一翼を担ったといっても過言ではない。これによって、山口は日本芸術院会員に選ばれ、また、昭和40年には文化勲章を受章している。

■川合 玉堂 (1873-1957)日本画家
 明治・大正・昭和の三代にわたり、近代の日本画壇に偉大な足跡を残した川合玉堂。画伯は、常に日本画壇の指導的地位にあって、日本画の正道を歩みながら、水墨山水画の近代化に生涯取り組みました。明治6年、田畑が広がり、木曽川にほど近いのどかな地・愛知県木曽川町に生まれた玉堂画伯は、七歳にして絵を描きはじめたとされています。
 伝統的な日本画の手法を学びながら、第三回内国勧業博覧会に十七歳にして出品・入選を果たし京都画壇に華々しいデビューを飾りました。以後、絵画展に出品を重ね、数多くの賞を獲得し、横山大観、菱田春草、下村観山らとともに、近代日本画壇をリードする俊英のひとりとなります。後身の指導につとめるかたわら独自の風景画を追求しています。
 日本の自然を愛し、四季折々の詩情あふれる風景とそこに暮らす人々を、愛情豊かに表現した不世出の画家・川合玉堂。まさに、近代日本画に一時代を築いた巨匠といえるでしょう。

■雪舟等楊 (1420ー1506)
 雪舟の生涯には不明の点が多く残されています。わかっているのは青年期に京に上り、相国寺の禅僧となったこと、その僧位は来客を接待する「知客(しか)」というごく普通の役僧だったこと、当時著名だった画家、春林周藤や周文に絵を学んだことなどです。やがて30代半ばに京を離れ、40代に明国へ渡ったとされます。帰国した雪舟は中国で学んだ画僧として着実に地歩を固め、数多くの傑作を残しました。

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